創業物語
セコム株式会社
飯田氏と戸田氏、2人の創業者

長嶋茂雄さんがCM出演し「セコムしてますか?」というキャッチフレーズでおなじみのセコム。
会社名は知っていましたが、どういった会社か、いつ創業されたのか、創業者はどんな人なのかなど
私も会社を立ち上げるにあたって、経営のヒントになればと思いセコムの創業期について調べてみました。
よかったら見ていってくださーい。
セコム株式会社

1962年(昭和32年)創業。日本で初めての警備保障会社として成長を続け、
2018年10月現在グループ会社数(セコム(株)含む)198社、
グループ全体の社員数は60,460名の大企業となりました。
「誰もが安心して暮らせる社会」と掲げ8つの事業を展開。
世間で1番知られているのではないか、2020年東京オリンピックで警備も務める
警備関連のサービスを行っているセキュリティ事業のほかに
防災事業、メディカル事業、保険事業、地理空間情報サービス事、
BPO・ICT事業、国際事業、不動産事業といった様々なサービスを展開している日本を代表する企業です。
創業
創業後、事業を軌道に乗らせ東京オリンピックの警備を担当
1961年(昭和36年)~1964年(昭和39年)

1961年(昭和36年)
飯田氏と戸田氏は学習院大学時代の友人であった。
飯田氏は大学卒業後、日本橋にある実家の酒問屋で営業を行っており、いずれ独立しようと考えていた。
卒業後も戸田氏と時々飲みに行っては将来の独立について語り合っていた。
そんなあるとき、飯田氏と戸田氏と欧州帰りの友人3人で浅草で飲んでいると友人が「欧州には警備を業務とする会社がある」と教えてくれた。
当時はまだ日本にないビジネスだったことから、「これだ」と独立を決断した。
東京都千代田区九段南2-2-8千代田会館に設立準備事務所を設立。
1962年(昭和37年)
7月
10月
東京都港区芝公園7-1に日本警備保障株式会社(現セコム株式会社)創業。
飯田氏は自ら企業を回り営業しましたが、まだ日本では聞きなれないサービスだったため話は聞いてくれても契約にはなかなか繋がりませんでした。それでもがひたすら営業した結果、千代田区にある旅行代理店から巡回契約をとる。

社員数100名となり事務所が手狭になったため、東京都千代田区神田神保町1-4に本社を移転。
業績も急カーブで上昇。
東京都千代田区神田小川町3-4に本社を移転。契約も2桁まで伸びてきて、採用にも力を入れていましたが、事務所の環境があまりよくなく、面接に来た人が帰ってしまうことがあり事務所の入り口に「必要を売る会社に無駄はない」という張り紙をした所、外部に大受けしマスコミに取り上げられ宣伝となった。
1964年(昭和39年)
10月
4月
1963年(昭和38年)
東京オリンピックの選手村の警備を工事段階から担当し、組織委員会から感謝状と社会から高い評価と信頼を得る。
11月
大阪支社も開設し、事業が順調でしたが
-
今後巡回や常駐を拡大して行くと、人も沢山増え管理が行き届かなくなってしまう
-
高度経済成長期に入り、急激に人件費が上がり高いサービスとなってしまう
といった課題点が見えてきたため、「SPアラーム」の開発に着手する。
3月
オンライン・セキュリティシステム「SPアラーム」を初契約し連続射殺事件にも貢献
1966年(昭和41年)~1969年(昭和44年)

1966年(昭和41年)
5月
9月
池袋にある銀行の支店で「SPアラーム」初契約。
現金護送契約を取得し、日本警備保障仕様の現金護送車が完成。名古屋の銀行で現金護送を開始する。
1967年(昭和42年)
社員による窃盗事件が相次いで起き、会社の存続に大きく関わりました。そこで飯田氏は今後会社が大きくなるにつれ、社員がみんな同じ考えを持って働く必要があると考え「社章を守る会」を開く。50回以上の白熱議論をし現在のセコムの理念の元となっている。
7月
創立5周年を迎える。社員数は1000名を超え、車両150台突破。東京の本社のほかに札幌、新潟、千葉、横浜、浜松、名古屋、三重、京都、大阪、神戸、福岡、北九州に事業所、系列会社を設けるまでに成長。
1969年(昭和44年)
4月
「SPアラーム」契約先で異常信号を受信し、隊員が駆け付けると犯人が建物に侵入していた。格闘の末犯人は逃走してしまったが、40分後に逮捕された。この犯人は4人を射殺し、広域手配されていた。(108号連続射殺魔事件)この事件で「SPアラーム」が多くのメディアで報じられ、電話が鳴りやまないほどお問い合わせが殺到した。
長嶋茂雄さんセコムのテレビCMに登場と東証2部上場
1970年(昭和45年)~1975年(昭和50年)
1970年(昭和45年)
7月
初「SPアラーム」の本格的な中央官制センターを開設。
1971年(昭和46年)
3月
10月
1972年(昭和47年)
1973年(昭和48年)
2月
8月
1974年(昭和49年)
6月
1975年(昭和50年)
3月

飯田氏は「機械でやれることに人手を割くのは、人間の尊厳を損なうものだ」と考え、契約件数2,000件もあった巡回サービスを廃止。「SPアラーム」1本となり、契約件数5,000件突破。
大阪万博の警備を担当。
長嶋茂雄さんがセコムのテレビCMに登場。「セコムしてますか」というキャッチフレーズが印象強く、17年以上にわたりセコムのキャラクターを務める。
一般公衆回線を利用した「SPアラームホン(のちアラームパック)」を発売。月額料金もより低価格で利用でき、新聞やテレビで報道され話題となった。
札幌オリンピックの警備を担当。
「セコム(SECOM)」ブランドを制定。「セキュリティ・コミュニケーション(Security Communication)」という言葉を略した造語で、“人と科学の協力による新しいセキュリティシステム”の構築というコンセプトを持っている。
アメリカで先進的といわれていたハンティントン・ナショナル銀行と無人銀行システムによる安全システムを相互提携。
東京証券取引所市場第二部に上場。この頃には全国に拠点を開設し体制を整備。
世界で初めてのCSS(コンピュータセキュリティシステム)が稼働。それまでは以上点滅ランプを24時間監視していたが、異常がると自動で時刻、異常内容が自動で表示されるようになり、安全性と効率性が向上し、契約数も急速に伸びて いった。
こうした昭和50年までの各施策により創業期の基盤が整い、
その後のセコムの発展に繋がっている。